パリ留学~帰国、そして最期

大正14年、蕗谷虹児はフランスのパリに留学します。
歓送会では、竹久夢二や野口雨情らが見送ってくれたそうです。

パリでは、当時フランス画壇で活躍していた藤田嗣治や東郷青児といった人たちとも親交を深めました。

蕗谷虹児は、苦学しながら「サロン・ナショナル」「サロン・ドートンヌ」といった美術展に連続入選を果たし、さらに、画廊シヴィで個展も開催します。

画家として順調にいっていましたが、昭和4年、東京の自宅が経済的に破綻してしまったため、やむなく日本に帰国し、その借金を返済するために、また挿絵を描く生活に戻ります。

蕗谷虹児が描く都会的なパリ風の絵は人気がありましたが、やがて日本が戦争に突入すると、蕗谷虹児の絵は時代に合わなくなり、制作休止を余儀なくされます。

戦争が終わると、蕗谷虹児は、少女クラブなど、復興した各誌に再び描き始めます。
小学館や講談社の絵本の挿絵なども手がけ、子供たちに親しまれました。

昭和29年には、「東映映画スタジオ」の設立に参加し、アニメの原画や構成を担当しました。

昭和42年、自画伝「花嫁人形」、翌43年に、「蕗谷虹児抒情画集」を出版し、また、同年に新宿小田急百貨店で「画業50年記念抒情画展」を開くなど、晩年も精力的に活躍しました。

昭和54年、中伊豆温泉病院で心不全にて死去。享年80。

この記事が参考になったと思ったら「いいね!」お願いいたします。

     






Copyright © 2007 蕗谷虹児の世界. All rights reserved