上京~樺太漂浪、竹久夢二との出会い

蕗谷虹児は、上京して約5年間、尾竹竹坡のもとで日本画を学びます。

その後、父親が新聞社の仕事で行っていた樺太に渡り、約2年半、放浪しながら絵を描くという放浪画家生活を送ります。

21歳になった蕗谷虹児は、樺太から故郷・新潟の新発田に戻り、尾竹竹坡門下の兄弟子の戸田海笛という人を頼って、再び上京します。

その戸田の紹介で、日米図案社という会社に入社し、今度はデザインの修行をすることになります。

そして大正9年、蕗谷虹児は、あの竹久夢二を訪ねます。


大正9年、樺太(現サハリン)帰りの21歳の若者が、先輩に連れられて本郷の菊冨士ホテルに竹久夢二を訪ねました。
スケッチ帖を見てもらい、「僕にも挿絵が描けるでしょうか」と訊ねると、「僕に描けたんだから、君にだって描けるさ」と夢二は励まし、『少女画報』の主筆・水谷まさるに紹介状を書いてくれました。

「大人の塗り絵画集 蕗谷虹児の世界(あおば出版)より」


この竹久夢二との出会いが、蕗谷虹児にとってのターニングポイントでした。

その後、「蕗谷虹児」の名前で『少女画報』に挿絵を掲載し、挿画家としてデビューを果たします。

これがきっかけで、朝日新聞の連載小説の挿絵や、少女画報、令女界、少女倶楽部などの雑誌の表紙絵や挿絵を担当するようになり、全国的にも名前が知られるようになりました。
今風に言えば、大ブレイクです。

この頃は、竹久夢二、吉屋信子、高畠華宵、中原淳一らが活躍した時期で、こうした大正期の少女文化が花開く時に、蕗谷虹児が登場したことになります。

竹久夢二と並び称されるようにまでなった蕗谷虹児は、生涯に渡って竹久夢二のことを「夢二先生」と尊敬していたといいます。

後に自分を脅かす存在になるかもしれない才能を、快く雑誌社に紹介した竹久夢二の人物の大きさにただ感嘆します。
なかなかできることではありません。

大正13年、蕗谷虹児は「令女界」に「花嫁人形」を発表します。
「きんらんどんすの…」で始まるこの詩は、後に杉山長谷夫の作曲で童謡になり、蕗谷虹児の代表作となります。

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